開け放した入り口のドアからは、乾いた風に運ばれた芝生の匂いが流れ込み、心地よく鼻腔をくすぐっていた。今日からの新しい住処、ICHM(International College of Hotel Management)の寮は、新たな生活の初めの一歩を踏み出した康介を、アデレードの刺す様な直射日光から守ってくれている。そのお陰で、康介は午後の日差しのキラキラと美しく、そして穏やかな側面だけを、ドアが切り取った四角い枠を通して楽しむ事が出来た。
20cm以上も背の高いデコボコ兄弟の弟、トンハンを見上げ、既に首の後ろにコリのようなものを感じ始めていた康介は、二つ同時に開かれたドアの音によって、その痛みから解放された。
部屋の中から走ってきた足音も、途中で何かにぶつかったような物音も、それら全てをひっくるめた大きな音で勢いよく開けられた方のドアからは、康介よりもやや小柄だがいかにも溌剌としたアジア人が、フレンドリーなオーラを纏って飛び出してきた。
そして、ゆっくりと開けられた方のドアから出てきたやや小太りのアジア人は、家族や恋人など大切な人を傷つけられて狂ったように激怒している時でさえ笑って見えるのではないかと疑ってしまう位、笑顔が通常の顔なのだと錯覚させる風貌で、ゆっくりと温かく彼を出迎えた。
「Hey, You must be Kosuke, right?I’m Kenneth!Nice to meet you!(君は康介だろ?俺はケネス!初めまして!)」
急いで飛び出してきたアジア人は、ネイティブスピーカーの発音で、康介に握手を求めてきた。
「コウスケサーン!ハジメマシテ!ワタシハ、リー・スンフン デース。」
一方のゆっくり出てきたアジア人は、大人の落ち着いた雰囲気と共に、どこかアクセントも発音もおかしい日本語でやはり握手を求めてきた。
康介はほぼ同時に差し出された二本の手をそれぞれ握り返し、アプローチの異なる二人に同時に応対するには、英語がいいのか、日本語がいいのかさえ分からず、ただ笑って「う〜ん、康介!」と名前だけを告げた。
初対面の人間に向かって、一言名前だけを告げるなどとは、いささか不躾な感もなくはないが、この時の康介にはそれ以外の対応の仕方が思いつかなかったものの、とりあえずニカッと笑った彼の笑顔が何よりの自己紹介になったようで、とにかくニコニコと微笑みあう四人は、何だか分からないけれども幸せな空間にいる事だけは間違いなかったようだ。
「C’mon!Let’s sit down first!Hey guys, would you like to drink something?(よし、とにかくまず座ろう!みんな、何か飲む?)」
ケネスが仕切って三人をソファに座らせ、自分はキッチンの小さめの冷蔵庫からコーラのペットボトルや人数分のグラスを取りにせかせかと動き回っているのを横目に、康介は間違いなく年上の雰囲気を持つスンフンにさっきの挨拶について敬語で聞いてみた。名前からして韓国人と分かる彼が年上なら、韓国文化の年齢に対する厳然とした取り決めを尊重しようと思ったのだ。
「ねぇ、スンフンさんも日本語ができるんですか?」
「ニホンゴ?ハイ、アー、カチュドンガスキデス!」
「???」
余りにもニコニコと微笑まれながらだと、何を言ったのか分からなくても聞き返せず、しかしただポカンとしている訳にもいかずに、康介はトンハンにさりげなく助けを求める合図を目で送ってみた。
「あっ、きっとカツ丼が好きって言ったんじゃないですかね。フンさん、日本語は話せませんよ。」
日本語を話せるフリをしているスンフンを前に、やはりどこの国でもニコニコ笑ったセールスマンは信用しちゃいけないと思いを新たにして、康介は大きく息を吸ってから反撃に出た。
「そうですか、実は私もカツ丼は嫌いなほうではないですが、生まれ育ちが東北という事もあり、やはりちょっと味つけが濃い料理を好む傾向があるんですよね。ほら、例えば鍋を一つ作るにしてもダシだけではなくて、更に味噌を追加するといった具合にですね。しかも、やはり白味噌ではなくて赤味噌をより頻繁に使用しますから、更に濃厚な味付けになるもので。ですから、カツ丼もタレが濃い目の方が好きですね。牛丼でもツユだくを頼んで、更に生卵を追加して醤油をかけて食べるのを好みますから。吉野家って知ってますか?朝まで飲んだ帰りがけに食べる吉ギュウってたまんないですよね?私達は『夜明けの吉ギュウ』って呼んでるんですけどね!」
康介は、息つぎもせずに一気に難しめの単語を盛り込んだ長文を日本語でしゃべり倒すと、ニコニコとスンフンに微笑んだ。
「あっはっはっはっ!コウスケサーン、You’re funny!(おもしろい人ですね!)」
眼鏡の奥の恵比寿様のような目を一瞬ぱちくりさせたスンフンは、さもおかしそうに笑い、負けを認めたように英語で話し始めた。
「そういう切り返しは想像していませんでした。コウスケサンは、ユンサク達から聞いていた通りの人ですね!」
『コウスケサン』だけは相変わらず日本語のスンフンだったが、彼の英語の発音は予想以上のレベルである事に、康介は驚いた。
「えっ、ユンサクは何て言ってました?」
「そのまま言っていいんですか?口は悪いし頭も悪いけど、おもしろい奴だって!」
「あの野郎、いつか殺す・・・。」
そう呟いた康介を見て、スンフンは再び腹を抱えて笑った。横でやり取りを見てやはり大笑いしていたトンハンが、男性の韓国人が年上の男性韓国人を呼ぶときに使う『お兄ちゃん』という意味の「ヒョン」という単語でスンフンに呼びかけた事がきっかけとなり、スンフンが康介よりも二歳年上である事も分かった。彼は既に『コウスケサン』と呼ぶようになったスンフンに、年下の自分に向かって『さん付け』はいらないと言ってみたが、スンフンは「もう気に入ったから」と相変わらずニコニコしている。
「じゃあ、俺は何て呼べばいいですか?韓国人って年の差を気にするでしょ?」
「韓国人同士ならあるけど、コウスケサンは日本人なんだから、そのままスンフンでいいですよ。言いにくかったらフンでもいいし。」
「俺だけ『さん付け』で呼ばれるまま、フンって呼び捨てにするのもなぁ。お互い『さん付け』ってのも堅苦しいし・・・。う〜ん、よし分かった。じゃあ『フンちゃん』って呼ぼうっと!」
トンハンが『ちゃん』はかなりカジュアルな表現である事をスンフンに伝えると、その意味はもちろん、響きも気に入ったのか、自ら「ワタシハ、フンチャンデス!」と喜んでいるので、どうやらそういう結論になったようだ。
年上のフンが年下の康介を『さん』と呼び、その逆が『ちゃん』であるパラドックスは、年齢差を重んじる韓国人社会の常識を鑑みるにつけ、日本人である彼だからこそ成し得る事だ。日本と韓国との間に正も負も存在する関係性の中から、正の側面だけを上手い具合に切り取ったような二人目の家族との出会いは、康介を何だか愉快な気分にさせた。