<< December 2011 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

スポンサーサイト

この広告は60日以上更新がないブログに表示されております。
新しい記事を書くことで広告を消すことができます。
スポンサードリンク * - * * - * -

第十四話 -目撃者-

「あのヘドウィッグの血は何色だと思う?絶対緑色だと思うぜ。」

「いや、生物じゃないんだよ、きっと。あの皮膚を一皮剥くとさ、ターミネーターみたいなロボットが出てくるに違いない。」

「じゃあ、今頃はオイルを飲んでいるかもな。」

ランチタイムのカフェテリアでは、康介がフンちゃんとトンハン、既にテディと呼ばれる方がしっくりくるようになったベンと一緒にテーブルを囲みながら、午前中のフロントオフィスの授業でコテンパンにされたヘドウィッグへの恨みを吐き出していた。余りにも声が大きかったので、彼女の悪口をぶちまけている姿を、本人や学校のスタッフに目撃されていないか、思わず周囲を確かめざるを得ないほどだった。

彼女の潔癖かつ容赦ない性格は、授業の進め方にも如実に現れていた。あらかじめ今日は何ページまでとテキストの範囲をきめてあるのだろうと思われる彼女のハイペースな授業は、とにかく息をつく暇が無い。いくつかのパラグラフ単位で生徒にテキストを読ませ、ヘドウィッグが説明や自らの実経験を紹介し、区切りがついた所でその章をまとめ、生徒達の理解度を試すような質問を投げていくスタイルは、全く理に適っておりそれはそれでいいのだが、読むのをつっ変えたり、答えられなかった生徒に対する突き放すような冷たいリアクションは彼らを凹ませるには十分すぎた。

そして、とにかく全てが『端から順番に』なのである。元々要領のいい康介は、自分の座っている席までの順番をざっと把握し、答える必要に迫られない限りは気を抜く術を早くも身につけたのでまだ救われていた。しかし、根が真面目なフンちゃんなどは、その『端から順番に』が作り出す、独特な淡々として冷たい印象に、完全に中てられていた。二時間の授業のきっちり半分の時点で与えられた十分間の休憩も、一旦外に出て新鮮な空気を吸って教室に戻ってくると、ヘドウィッグが腕のGショックを睨んで立っているのである。

「何かさ、一番最初の授業がヘドウィッグのクラスってのは、どうなんだ?この後のクラスがイージー(簡単)に感じられれば、それは逆にいいのかもしれないけど・・・。」

「うん、でもとにかくこんな普通じゃない疲れ方をして、午後までもつかな?」

「確かにそうだけどさ。でも、とにかくランチをしっかり食べてエネルギー補給してさ、午後は午後で気持ち切り替えるしかないじゃん!ヘドウィッグよりひどい先生はそういないって。」

康介は、相変わらず自分の英語力の足りなさをひしひしと感じざるを得ない状態にあったが、ヘドウィッグの授業は半分以上理解できたと分析していた。元来がポジティブな正確である彼にとって、最初の授業が予想以上に厳しいものであった事へのショックよりも、何とか必死にでも授業についていけた事への達成感と安堵感の方が大きく、フンちゃんとトンハンよりは、まだマシな顔色をしていたはずだ。

(ユンサク、チョイ、ジャックは大丈夫かな?)

彼は能天気にも生じたその気持ちの余裕からか、ケネスと同じクラスになった同じ語学学校からの戦友三人の事を案じ始めていた。彼らのクラスはまだランチ休憩にならないらしい。

「さ、午後のクラスには遅れないように行かなきゃね。」

テディに促された康介達は、トレイを戻してカフェテリアを後にし、出来るだけ日陰を選びながら再び校舎へと戻っていった。

午後のクラスは、ビジネス・コミュニケーションのクラスだった。

「Welcome to my class, everyone!(私の授業へようこそ、皆さん!)」

教室で生徒達を待っていたのは、スキンヘッドに丸い眼鏡の似合う小柄な男性教諭だった。風貌なのか雰囲気なのか、かなり強烈にエルトン・ジョンを思わせる外見の『濃さ』は、決してヘドウィッグにも負けないものがあった。そしてオージーとしては珍しい特徴が、彼の個性を際立たせているようだった。160cmそこそこの低い身長に加えて、スーツをただ何となく着るだけの姿勢とは一線を画す、こざっぱりとしたオシャレな身なりが顕著だったのである。タンクトップと短パンを身につけたラグビー大好きなクマ達が、今日は特別な日だからと言ってスーツを着ているのとは次元が異なるのだ。

「私はライアンです。皆さんにビジネス・コミュニケーションとヒューマンリソース(人事)についての授業を行いますので、よろしくお願いします。」

蝶ネクタイの上の、人懐こそうに口角の上がった丸顔は、ヘドウィッグの冷たい印象とは対照的であった。二人が並んで立ったら、誰もが凸凹コンビだと言うに違いない。

「では、まずアイスブレークとして、皆に自己紹介をしてもらいたいと思います。私のクラスでは、コミュニケーションについて色々な角度からフォーカスしていきます。その為にもまずは自分自身を正確に知る事から始めなくてはなりません。」

ライアンは一旦言葉を区切って教室を見回すと、ニコッと微笑みながら続けた。

「では、机をコの字型に並べてください。そして真ん中に椅子を一つ置いてください。そうそう。」

そして彼は教室の一角に置いていた脚立付きのビデオカメラを取り出してきて、コの字の真ん中に置かれた椅子の正面に据えた。

「もう分かりますね。一人一人、このカメラに向かって二、三分の自己紹介をしてください。自分がどういう表情で話をしているか、相手に好印象を与えられる態度かどうか、声の大きさは十分か、その他気が付いた事は何でもクラス全員で検証するのです。」

日本でなら「えーっ!?」と、反感とも戸惑いとも言えるリアクションが返ってきそうな展開だが、ここオーストラリアの生徒達は、皆「あっ、そう。」という感じである。「えーっ!?」と言いたい気持ちを抑えて、康介は自分が全員に注目される中、しかもカメラで録画されながら自分の自己紹介を英語で行っているシュミレーションをしてみたが、それは彼を暗澹たる気持ちにさせるだけであった。

「では、さっそく順番にやってもらおうかな。じゃあ、Family name(名字)のアルファベット順で呼んでいきます。Mr.Kosuke Aoshima、君からお願いします。」

康介は名字を決めた自分の祖先を恨む間もなく、他の生徒達が口笛や拍手ではやし立てる中をフワフワと歩を進め、ポツンと置かれた椅子に腰を下ろした。汗が引いていくスーッという感覚が椅子にまで伝わっていくのが感じられた。

「アクション!」

彼をリラックスさせようと映画監督のように合図を送ったライアンに対し、強張った顔を無理やり笑顔に修正した康介だったが、第一声をうまく出せずに咳払いを一つ挿まなければならなかった。

その後、何とか自分の名前から始まり、出身地や趣味の事、自分の経歴や夢について、たどたどしいに違いない英語で自己紹介をし、途中でライアンから振られた「何故ICHMを選んだのですか?」というアドリブの問いには、何一つ英語で表現できないまま、持ち時間は矢のように過ぎていき、気が付くと彼は再び口笛と拍手の中にいた。

「では早速、康介の自己紹介を見てみましょう。」

ライアンは、カメラを教室備え付けのテレビに接続し、ビデオの再生ボタンを押した。
康介は今、自分自身の目撃者になろうとしていた。
Yas * 留学 * 19:19 * comments(11) * trackbacks(74)

第十三話 -Gショック-

まるで「だって当たり前じゃないか」と宣言するように、オリエンテーションから一夜明けた翌日から直ちに授業を受けられるよう、クラス毎のカリキュラムが配布されていた。一年生は二つのクラスに分けられており、康介達のユニットでは唯一ケネスが別クラスに振り分けられていた。康介達のカリキュラムとケネスのクラスのそれとは若干組み合わせが異なるものの、どちらも朝から夕方までビッシリである。

語学学校はせいぜい授業の一コマは四十五分から五十分程度であるが、ICHM(International College of Hotel Management)の一コマは短いもので二時間である。一年生のカリキュラムを見ると、マネージメントのセオリーを学ぶ時間よりもレストランやバーの基礎知識とその活用や、ホテルのレセプション業務を含むフロントオフィスでの働き方といった、より実践的な内容が多かった。二年生以降からビジネスプランや企業会計科目が出てくる事になっているが、一年目は体も動かしながら数々のグループワークを通して、生徒間のコミュニケーション力を高めると共に、チームで働くという意義とその役割について教えたいという意図が感じられた。

「うわっ、フンちゃん!これ!LCBって朝から夕方までぶっ通しで丸一日だよ!!」

昨晩の夕食後に、オリエンテーションで渡されたカリキュラムをカウチの上で眺めていた康介が、格別な驚きをもってルームメイトのフンに語りかけずにはいられなかったのが、このLCBと呼ばれるフランス料理の科目であった。Le Cordon Bleu、フランス語で『青いリボン』という名前を持つ、このフレンチ・クッキングを教える学校との提携は、ICHMの特徴の一つである。ホテル経営を行う上で、自らも基礎位出来なくては、とても料理を知っているとは言えないという理念の下、生徒は全員週一回の料理のクラスを二年間受けなくてはならない。その授業で用いるシェフ用のユニフォームも既に制服と一緒に渡されていたが、その週一回の料理クラスが朝七時半から夕方五時半までぶっ通しだとは思っていなかった。

「コウスケサン、そのLCBが最もハードなクラスらしいよ。上級生の韓国人生徒達から聞いたけど、授業自体も毎週キツイし、テストもセオリーと実践と両方難しいし、毎年何人も単位を落としてるんだって。」

フンちゃんは、年齢が上であるというだけではなく、その敵を作らない人柄と風貌、更に韓国人としての揺ぎ無い誇りと伝統を重んじる古いタイプの性格により、早くも他の韓国人生徒達から頼りにされる存在となっていた為、学校の事については入学したばかりとは思えない程の情報通であった。

そんなフンちゃんとの昨晩の会話をトンハンも交えて蒸し返し、お互いに今日の授業初日を不安に感じながらも、最初の授業となるフロントオフィスのクラスへ出席する為、康介達三人は制服のネクタイを最終チェックしてからユニットを後にした。別なクラスの時間割が微妙に変わる為、今朝はまだ時間に余裕のあるケネスが彼ら三人の初陣を見送った。

「Enjoy your day!」

「Tell me how!?」

一人まだシャツも着ずに戸口で微笑むケネスに向かって捨て台詞を残し、彼らは昨日と同じ校舎へと急いだ。昨日のオリエンテーションに行く時もそうだったが、時間にきっちりしているケネスがいないと、残りの三人は行動がルーズになってしまうらしい。今朝もICHMで初めての授業になるというのに時間ギリギリであった。しかし、ここはオーストラリアである。時間厳守などとは程遠い国民性に慣れ、日本や韓国でそうであるように五分前行動をする方が何だかおかしいのだという感覚にさえ陥っている三人は、それでもダッシュというよりは鼻歌付きの早歩きであった。

しかし、後悔先に立たずと昔の人はよく言ったものである。昨日と同じ光景を目の前にした三人は、早くもやはりダッシュしておけばよかったと思わざるを得なかった。クラスの入り口に、昨日のオリエンテーション会場にもいた長身の女性が立っていたのである。昨日と同じ白のブラウスに膝下のスカート、ひっつめに結ばれたカチッとしたイメージのブロンド、異なるのは首に巻かれたスカーフだけだ。皺一つないブラウスは、彼女が同じシャツを何枚も持っているタイプなのだろうと思わせた。

「You must be Hoon, Dong-han and Kosuke, aren’t you?(フン、トンハン、康介ね?)」

朝の挨拶もなく、ただ事実だけを確認していますという感じの問いに頷く事しか出来ない三人に対し、その女性は抑揚のない冷静な声で続けた。彼女の英語の発音は、どこか教科書的な響きを伴い、アクセントもネイティブスピーカーとは若干異なっていた。

「私の時計によると、あなた達は既に一分二十秒も授業に遅刻しています。実際に働く事になったら、遅刻にはどんな言い訳も通じません。残念ですが、初日から遅刻と記録します。」

昨日彼女を見た時に感じた違和感が、その長い腕の先に巻かれた黒い大きなデジタルの時計にあった事を康介は思い出した。女性用の文字盤の小さなアナログ時計の方が絶対に彼女の醸し出す雰囲気にマッチするのに、敢えて黒のGショックである理由は、秒数まできっちりしないと気が済まない彼女には必需品であるからなのだろう。康介達三人は初日から遅刻の大ばか者のレッテルを貼られたが、半年前にアインズバリー語学学校の最初の授業もユンサクと話し込んでいたお陰で遅刻した過去を持つ康介は、明らかに落ち込んでいるフンちゃんとトンハンとは対照的に、「Naughty boys(悪い子たち)」と呼ばれないだけマシだと開き直っていた。

彼ら三人より更に三分ほど遅れて一人のオージー学生が到着し、同じ説教の洗礼を受けて着席すると、ようやく彼女も教室に戻り、自己紹介を始めた。

「では、これで全員揃いましたね。私の名前はヘドウィッグです。ドイツ出身ですが、六年前にオーストラリアに帰化しました。ホテル業界の経験は15年になります。あなた達のフロントオフィスとハウスキーピングの授業を受け持ちます。」

先ほど感じたアクセントは、ドイツ訛りだったのかと改めて思いながら、康介はこの女性を興味深く眺めていた。一点の隙もない立ち振る舞いと細かさはドイツ人気質なのだろうか?

「初日に四人も遅刻するなんて私がこの学校で教えている期間中、初めての事です。非常に残念です。」

「ヘドウィッグ、一分二十秒だろうが遅刻した事は悪いと思っていますが、オーストラリアの語学学校では先生からして十分以上も遅刻する事はざらでしたよ。」

彼女の態度に余りにも人間的な温かみを感じられなかった康介は、思わずどもりながらも英語で反論せざるを得なかった。

「そういう話が事実である事も承知していますが、それは単に彼ら、彼女達がプロフェッショナルではないというだけの話です。私が育てたいのは真のプロフェッショナルです。そういう人達と比べる事自体がナンセンスです。」

康介の反論に対して更に熱く反論するヘドウィッグの周囲にはプロフェッショナルという文字が浮かび上がって見えるような迫力があった。もしくは彼女の周りだけ重力(Gravity)の密度が濃く、歪んでいるように見えた。実際、彼女のオンとオフの切り替えは徹底しており、授業中に笑うのをこれから三年間一度も見る事は無いのである。

彼女の完璧主義と細部まで目を光らせる監視体制、評価への厳格さは、正にプロフェッショナルであると言えたが、康介には彼なりのホスピタリティーへの考え方もあり、ただ丁寧で正確かつ迅速なだけがトータルサービスではないと思っていた。しかし、今の彼にはまだ何の実績も無く、机上の空論を曝け出す愚を犯すつもりもなかった。彼はそれ以上反論するのをぐっと堪えた。

彼の挑戦は始まったばかりであった。
Yas * 留学 * 18:13 * comments(0) * trackbacks(22)

第十二話 -パンケーキ-

滞りなく修了したオリエンテーション会場から出ると、康介は一旦寮の自室に戻って制服から私服に着替え、愛車のフォルクスワーゲン・タイプ3にキーを差し込んだ。郊外特有の幅広の道を南へと向かい、真夏の日光がキラキラと反射するトレンズ川の川面には、橋を渡るタイプ3の茶色がかったオレンジ色の流線型が鮮やかに映えていた。アデレードのCityまで、ICHMの寮からはほんの15分のドライブだ。

待ち合わせ場所のパンケーキショップには、既に真理奈と亮子、そして理沙が康介を待っていた。

「おっ、康介!早かったやんか。」

「うん、結構あっさり終わったよ。」

とりあえず一言だけをその場に残して、この店自慢のアイスクリーム添えパンケーキとアイスコーヒーを注文しにカウンターへ向かった彼は、いつもの通り『No cream on top』と付け加える事を忘れなかった。コーヒーはブラックに限るという主義を曲げない康介にとって、オーストラリアで注文すると出てくるパフェのようなアイスコーヒーは天敵であった。注文時に魔法の言葉を言わない限り、生クリームが天井まで達するのではないかという長いグラスを受け取るはめになってしまうからだ。

「で、どうやった?入学式は?ようやく希望の学校に入学できたって、感動して泣いたんちゃうん?」

自分のオーダーの番号札と共にテーブルに戻った康介に、亮子がからかうように問いかけた。

「アホか。日本の学校でも、泣けるのはせいぜい合格発表の時と卒業式の時だけだろう?入学式で泣いてる奴なんて見た事ねぇぞ。」

「あはは!言われてみればそうやな。でも、こっちの学校の入学式ってどんななん?やっぱり体育館だか校庭で保護者同伴でやるん?」

「いや、保護者なんて一人も来てなかったよ。学校の講堂でやったんだけど、何かうちの大講堂って映画館みたいでさ、当事者ってよりも映画を見ている観客みたいな気分だったな。」

実際、その通りの感想であった事は間違いないが、オリエンテーションの最後に渡されたA4サイズの招待状に、今週の土曜日にアデレード中心にあるヒルトンホテルのBallroomでウェルカム・カクテル・パーティが開かれる事が告知されており、きっとそのパーティでより実感するのだろうと思っていた。康介に口の端から『チッ』と音を出すウィンクを伝授したコンシェルジュのいるホテルだ。康介は彼に再会し、自分も同じホテル業界仲間への第一歩を踏み出した事を伝えられればいいなと密かに楽しみにしていたのだった。

「なんかさ、康介、立派になったね。一皮むけた感じ。」

語学学校が一区切りついたクリスマスまでは、ほぼ毎日顔をあわせ、週末の朝には寝起きのまま一緒に朝ごはんを食べていた理沙とも、ここ二ヶ月の間は会ったり会わなかったりという状態であり、お互いに何となく距離感が掴めずにいたが、彼女が今はそういう雰囲気を真理奈と亮子に悟られないようにしているのが、康介にも痛い程伝わってきた。数ヶ月前に振られた涼子への思いを引きずったままで理沙と会う行為は、依然彼にとって安らぎであると同時に自分を責める拷問でもあった。理沙のことは大好きだったが、一番避けたい相手でもあった。

「そうか?だといいんだけどな・・・。実際はちょっとへこんでるんだ。英語のレベルが高すぎて、早くもついていけてないんだ・・・。」

「へぇー、康介でも全然あかんの?だって、試験も受かったんやろ?語学学校の先生とも普通にしゃべっとったやん。」

「うん、まあな。俺も正直、ちゃんと自信持って行けるって思ってた。でも、実際行ってみたら、当たり前だけどほとんど皆ネイティブなんだよな。留学生の俺らを抜かしては。英語を勉強する為に行く所じゃないから、英語は出来て当然なんだよ。それが前提だって事は分かっていたつもりなんだけど、語学学校の授業で先生が話す英語と比べて、日常の中で友達同士で話す当たり前の会話とかオリエンテーションのスピーチは、やっぱり全然レベルが違うのな。のっけからガツンと思い知らされて、これから俺、本当に大丈夫なのかってちょっとブルー入っちゃってさ。」

真理奈と亮子は明らかに他人事のように笑いながら彼の愚痴を聞いていたが、理沙は対照的にまるで自分自身の問題であるかのように深刻な表情だった。そんな理沙を見る度に、彼女への想いをさらに強く感じる反面、彼の葛藤もどんどんその姿を醜く変えていくのだ。彼女といると常に感じるその気持ちを押し殺しながら、康介は話を続けた。

「でも、そのうち慣れるべ?大丈夫、大丈夫。」

「そやな、康介なら何とかすると思うで。楽観的やし。それより、チョイとかの方が心配やな。ジャックもそうやけど、真面目な分、深刻にもなりやすいやろ?」

「ちょっと待てって。何か俺が真面目じゃないみたいに聞こえるんですけど。」

「え!?もしかして、自分が真面目やとでも思ってるん?あかん、あかん、それは勘違いやで。」

どれだけ憎まれ口をたたかれようとも、やはり真理奈達と過ごす時間は、彼に自分を取り戻させる上で必要とも言えるものであった。他愛も無い話に二時間ほど費やした後、他の三人をそれぞれの家に送り届け、康介は寮へと戻ってきた。ルートの都合を持ち出し、理沙を一番先に降ろしたのは、二人っきりになってしまった後のきまずさを避けたい気持ちからだった。理沙も平静を装っていたが、先に降りた時の寂しそうな横顔は、真理奈と亮子にも察しがついたようだった。

「なぁ、理沙とは上手くいってへんの?」

三人になってからの車内で真理奈がさりげなく康介を問いただした。

「いや、上手くいってないって訳じゃないけど、よく分かんない・・・。はっきりしてる事は、彼女がめちゃめちゃいい子だって事だけだな。」

「ふ〜ん、何だか分かったような、よう分からへんような・・・。ま、大切にしてあげなあかんで。」

「うん。」

車を降りる時の真理奈の言葉が、彼の胸に存在している黒い渦に更に回転を与えた。

パンケーキを食べてきた為それほど空腹ではなかったが、康介は車を一旦正面玄関に駐車して、丁度夕食時のカフェテリアに足を運んだ。これからの三年間、英語に怯えながら過ごすよりも、少しでも早く今の環境に慣れて、自分の英語コンプレックスを克服する事が最優先であると思っていた。その為には、気心知れた仲間とだけではなく、もっと広く積極的にネイティブスピーカー達と交わっていくやり方が近道だ。彼は、先ほどお茶をした三人からもらった勇気が、時間が経ったパンケーキのように萎んでしまう前に、自分自身に喝を入れ直した。

カフェテリアのドアを開けると、向こうからも開けようとしていたのか、「きゃっ」と驚いた声と共に制服姿の女の子とぶつかった。彼女は康介の顔を見上げると、更に少し驚いた表情を見せ、そのまま何も言わずに走っていってしまった。左右に揺れるポニーテールは、彼に初日にちらっと見えた記憶を呼び覚まし、そして小さくなっていった。
Yas * 留学 * 19:54 * comments(2) * trackbacks(13)

第十一話 -犬かき-

ICHM(International College of Hotel Management)の校章が入った自分のブレザーに一度は袖を通した康介が、トンハンのまるで紺色のテントのような巨大なブレザーを奪い取り、指先よりも遥に長い袖をゾウの鼻のようにして遊んでいると、

「Hey, 康介!時間がないぞ!」

自分のブレザーを返して欲しいと言えず困ったような表情をしていたトンハンに、ケネスが助け舟を出した。今日はいよいよICHMの入学式である。日本の学校のように盛大に一日かけてやるわけではないが、午前中にオリエンテーションと称した集まりがある。康介はXLサイズのブレザーをトンハンに返し、自分のブレザーに袖を通す前に、もう一度ネクタイの結び目をチェックした。

「いよいよか・・・。」

新しい一歩を踏み出す時、康介はいつも少しの緊張と大きな高揚感を得る。生まれて初めてのスーツを着て学長の話を聞いていた大学の入学式では緊張感が足りずに寝てしまったが、式が終わった後のサークルやら運動部の勧誘合戦はとても楽しかったし、新調したスーツに身を包んで社長の話を聞いていた入社式では、はやく一人前に稼げるようになりたいとかなり興奮していたのを覚えている。その日本でのサラリーマン生活を経てやってきたこの留学生活も、今日からいよいよ新局面を迎える。本格的にホテルマネージメントの勉強を始めるのだ。英語はその為の手段、道具にすぎないというのが前提だが、この半年の勉強では正直まだ不安なままだった。しかし、賽は投げられたと頑張るしかない。

康介は同じユニットのケネス、トンハン、フンちゃんとユニットのドアに鍵をかけたか再点検し、四人一緒にオリエンテーションの行われる大講堂に向かった。二月初頭の真夏の太陽は、朝から既に容赦なく、ただでさえ日焼けして真っ黒の康介の顔を、まだ足りないとばかりにじりじりと焦がし始めている。一度は羽織ったブレザーを脱いでワイシャツの袖をまくっても、数m歩いただけで汗が噴出してくる。五分ほど歩いてようやく校舎にたどり着くと、日陰のありがたさを実感する間もなく、フンちゃんがオリエンテーションに遅れそうだと急ぎだした。

三階建ての校舎は大きな中庭を中心にして、その周りを取り囲むように建っていたが、その外見以上に一辺の廊下は長く、一直線に伸びていた。早歩きで講堂へと急いでいた四人は二回ほどどっちに行くかで軽くもめたが、ようやくその二階の一角に、先生らしき長身の女性が立っている講堂への入り口を発見した。

「お待ちなさい。なんですかそのだらしない格好は!」

愛想を振りまきながら中へ滑り込もうとした四人を、その長身の女性がピシャリとその行く手を遮った。

「学校にいる時間において、生徒は常に身だしなみをきちんとする事が要求されています。そんなだらしない格好で中に入れる事はできません。これは全てのクラスに出席する時も同様です。今すぐ袖を下ろし、ブレザーをきちんと着なさい。」

入学オリエンテーションが始まる前にも関わらず、一刀両断という表現がぴったりの指導を受ける羽目になった四人は、しぶしぶともやれやれとも異なる何とも言えない気持ちで、言われた通りに制服をきちんと着直した。その女性は白いブラウスと黒の膝下丈のスカートというかっちりとした着こなしで、顔の表情もきりっとして隙が無い印象を与えており、その長身は威圧感を感じさせる要素の一つにすぎなかった。彼女は、康介のネクタイがまだ曲がっていると指摘するなど、全体的に納得していない様子がありありとしていたが、もう時間が無い事を自分の時計で確かめると、四人が中に入る事を許可した。

そのスタイルからは、デザイン的にすっきりした小さめのアナログの時計が似合いそうなものだが、彼女の腕には男性用を思わせる黒いデジタルの時計が不釣合いに巻かれていた。

暗い通路を抜けると、すり鉢を三分の一に切り取ったような形状の大講堂が、ステージを正面にして扇形に広がっていた。彼らが入ってきた二階の入り口は一番下の座席横にあり、見上げた先には映画館のような座席に同じ制服を着た生徒達が納まっていた。先日のパーティで自己紹介しあった顔をいくつも見つけたが、制服を着用しているせいか、みんな何歳も大人びて見える。三階からの入り口が一番上の座席の横にあるらしい所を見ると、二階分をぶちぬいた高さの空間なのだろう。もうかなりの数の生徒が着席しており、席を選ぶ余地も無かったので、康介達四人はとりあえずステージに近い下側の座席に四席分見つけて腰を下ろした。各席の左の肘掛部分には小さな台が収納されていて、それを引き出すと丁度左胸下の位置に小さなテーブルが出現する事になる。彼らが珍しそうにその収納テーブルをいじり始めて間もなく、ステージ上に一人の白人男性が現れた。ブロンドのカーリーヘアに細縁のメガネが似合うひょろっと背の高い、どこか上品さを感じさせるその人は、学校のオーナーであるミスター・チャップマンであると紹介された。

「世界中から集まり、今日から始まる新学期を迎えた皆さん、まずはようこそ!学校を代表して皆さんを歓迎します!」

過去の幾度もの経験に裏打ちされた落ち着きと共に、彼の歓迎挨拶のスピーチが行われた。人に好印象を与えるにはどう振舞えばいいかというワザを熟知しているようなタイプの人である事は間違いないが、それにも関わらずそれが嫌味にも感じられない所は、何か持って生まれたものを感じさせる。彼は初めに抱いた通りの印象のままスピーチを終えてステージを降りた。パーティの時以来不安に感じていた英語も、ゆっくりと明快に話す彼のスピーチは康介にとっても聞きやすく、ほぼ内容の全てを理解できた。康介は誰にも気付かれないように、ほっと胸をなでおろしていた。

彼と握手をして入れ替わりにステージに登壇したのは、ユダヤ人を思わせる巻き毛で黒い短髪の中肉中背の男で、ドクター・イアン・ブラックと紹介された。彼はこの学校の校長だった。彼もチャップマン・オーナーの意を引き継ぎ、このアデレードの地に集った生徒達を歓迎するスピーチを開始したが、ドクター(博士号)の肩書きが示す通りの明晰さを感じさせる半面、人間的な温かみを発しておらず、外見だけでなく、その目つきの鋭さも先ほどのオーナーとは対照的な印象を残した。そして彼のスピーチは、理路整然としてはいるのだろうが、話すスピードは急流の流れを思わせ、使用する言葉は法廷を思わせる、康介の英語レベルをはるかに超えているように感じられた。正直に言って、彼のスピーチの三割も理解できていない結末は、先ほどのオーナーのスピーチで少しほっとした状態から、一転して奈落の底へと突き落とされたようなショックを彼に与えた。遊園地のお化け屋敷で、もうすぐ出口だとホッとさせておいて、最後にどでかい仕掛けや演出で恐がらせる演出のようだ。

ドクター・ブラックのスピーチの後半に、おそらくジョークのようなフレーズがあったのだろう。生徒達が同時に笑うタイミングの中、康介は完全に取り残されていた。おそらく康介以外にも、アジア人を中心にその意味を理解できずに笑い損ねた他の生徒もいたはずだったが、彼には人の事まで心配する余裕など、これっぽっちも無かった。そして漠然と感じ始めていた英語への不安が、ここへ来て一気に現実になってきている事実に、康介は不安と焦りの色を隠す事も難しくなっており、もし今、この講堂が電気で照らされて昼間のように明るかったら、彼はその顔色をはっきりと周りに悟られていたに違いなかった。正規の試験を受け、入学に必要な点数を取ったという実績も、彼が入寮して以来感じている周囲との英語力のギャップを受けて、自信を育む何の役にも立っておらず、むしろ今後の不安を呼び起こすばかりであった。

座席が映画館を思わせるからだろうか。目の前に存在していたステージは、いつしかまさに映画館のスクリーンに変わっており、今朝、トンハンのブレザーを着ていた自分自身のイメージそのままに、身の丈よりはるかに大きなサイズの服の中で泳いでいる康介が映し出されていた。息継ぎも出来ずにもがき苦しみ、必死に犬かきをしている自身の姿を眺めるのに、ポップコーンは必要なさそうだった。

Yas * 留学 * 23:56 * comments(2) * trackbacks(9)

第十話 -時差-

「・・・とにかく、今日から新しい寮に入ったから。何かあったらこの番号にかけて部屋番号を伝えればいいから。じゃ。」

そう母親に告げて受話器を置いた数分前の康介の表情をもし誰かが見ていたとしたら、パーティーの場でベンから新しい友人達を紹介されてエキサイトしている今の彼と同一人物だとは思えないことだろう。実の家族と会話をすること自体がまれである彼にとって、とりあえず今の所在地を連絡する目的があったにしろ、自ら家族に電話する機会は、日本を震度5以上の地震が襲う頻度より少なかった。家族とコンタクトを取る度に、自分の家族は気持ちがバラバラで互いに寄り添いあえないのだという寂しい様な不安定な気持ちにさせられる結末は、いつも彼をうちのめしたからだ。

サマータイムの適用期間によっても異なるが、日本に電話をする度、常に1〜2時間しかないオーストラリアとの時差はやはり便利であると実感する。日本が今何時であるかを気にする必要が無い。ここICHMで与えられた個室には電話も備わっており、語学学校のゴッサム寮の共同公衆電話とは大違いだ。元々、涼子とのコミュニケーションに支障がでないよう時差の少ないオーストラリアを選んだ経緯もある。既に振られてしまっている身では遅いのだが、ゴッサム寮でも部屋に電話があって、涼子が勇気を振り絞らずにもっと気軽に電話できる環境だったら、あんな風に振られずに済んだのではないかと悔やまずにはいられない。もちろんゴッサム寮にいた時は、その環境を海外生活では当たり前なのだろうと思っていた為、こうしてそれが当たり前ではない環境を与えられるまでは気付きもしなかったのだが。

つい過去(ほんの数ヶ月前だが)の傷をほじくり返してしまう愚を侵す度に、康介は何とか自分の気持ちを前に向けるよう努めてきたが、こうした大勢が集まる場というのは、最も簡単に表向きの自分を取り戻せる場所であった。並んでいるとまるで山脈の様であるベンとトンハンの間に割り込んだ康介は、捕らえられた宇宙人と間違われてもおかしくなかったが、必死に二人の英語の会話を聞き取りながら、分からない単語が出てくると「それ何?」と二人に質問を浴びせた。英語が母国語であるベンにとっては、康介のボキャブラリーは小学生レベルに映っていたに違いないが、彼は面倒くさそうな顔は一切せずに全ての質問に丁寧に答えてくれた。トンハンとフンちゃんの英語も康介のそれと比べるとかなり上のレベルにあったが、やはりネイティブスピーカーの英語とは異なる。今の康介にとって、授業中に先生が話す英語は理解できても、こうした日常の友人同士の会話というものは、とてもハードルが高く、理解するのが困難な状況だった。たまに映画を見に行っても、字幕なしのストーリーにおいて会話部分の半分も分からないのとよく似ていた。トンハンやフンちゃんとのバカ話は理解できても、トム・クルーズの台詞は半分しか分からないのだ。そんなレベルにある康介にとっては、ベンやケネスがゆっくり話してくれる事も、質問に答えてくれる事も、正直に言って涙が出る位ありがたいのが実情なのである。

こうしてパーティの場でたくさんの生徒達と話していても、英語が覚束ない康介とも積極的に交流してくれるタイプと、明らかに面倒くさそうに英語もまともに話せないのか?という顔をするタイプをはっきりと区別する事ができる。ユンサクを連れてとりあえず生徒達の輪を一回りしてきた後で、康介はしみじみとベンに言った。

「ベンはさ、なんでそんなに穏やかなんだろう?」

「そうかな?ラグビーの試合中は、猛獣みたいな恐い顔してるって言われるけど・・・。」

「あはは!それは是非見てみたいね。今度試合のある時は見に行くよ。」

「そうよ、私の彼は優しいジェントルマンなの。」

突然、割り込んできたデビーがベンの腕に自分の腕を巻きつけながら言った。ベンは優しく彼女にキスをして、照れくさそうに頭をかいている。どうやらこの二人は付き合っているようだった。デビーの後ろからやってきたベロニカもひょろっと背の高いブロンドの彼氏を連れてきた。まだ入寮して間もないが、ティーンネイジャーに色恋沙汰はつきものだ。

「私の彼、オランダ人のアンディよ。最後の学年だから今年卒業しちゃうのがもう今から寂しくて!」

ICHMは三年制なので、紹介されたアンディは既に二年間をここで過ごしている先輩という事になるが、オーストラリアの学校では学年が違うからどうこうという先輩後輩の差は大きくない。康介達のように社会人を経験している年長組が一年生で、まだ十代の三年生もいるなど、40代、50代の年配になってもキャリアアップの為に大学に戻れるオーストラリアの教育環境を反映している。

パーティの間中、皆の会話に一歩も二歩も遅れていたユンサクやチョイはまだ宵の口から自室に帰ってしまっていたが、その後もデビーのマシンガントークに呼び寄せられた人の輪が大きくなり、気がつくと十人以上の生徒達が集まっていた。お互いに自己紹介をしていると、本当に色々な国から生徒が集まっている事が分かる。ケネスが仲良しだというイタリア系オーストラリア人のアンドリューとジンバブエから来たというピートはいかにもヤンチャなティーンネイジャーだし、パキスタン人のハビエルは自らをパキスタンの王族だと名乗っている。いかにも頭が切れそうなアメリカ人のトニーは、アメリカ人特有の積極さをもって常に会話の主導権を取っては皆に話題を振っているし、それを冷ややかに眺めているのはフランス人のジャンである。女の子達も個性的で、優等生タイプのソニアと見るからにパーティ好きなシェリーというオージー同士の対比も明白で興味深く、ロシア人とユーゴスラビア人の女の子二人は突出して背が高く、女性版ツインタワーを形成している。

デビーのおしゃべりはまだまだ続き、ベンの話題へと戻った時に、康介が食いついた。

「私はラグビーとか好きじゃないから彼がプレイしているのを見た事は無いけど、普段の彼はホントに優しいの。大きな体に優しいハートでしょ。肌の黒いテディベアみたいな人よ。」

「あっ、それいいねー!これからベンの事をテディって呼ぼう!」

康介の提案に皆が賛成し、照れくさそうに苦笑いしていたベンは、その後学校中でテディと呼ばれるようになった。

こうして空が白み始めるまで続いたパーティも、限界を通り越した脱落組みが一人また一人と部屋に寝に帰った後、残された康介はサバイバルした一人であるケネスに話しかけた。

「なぁケネス、色んな国から集まって、みんなでワイワイやるのは楽しいな。いい奴が多くてホントうれしい。」

「レセプションのキムが、今年は30カ国以上から集まってるって言ってた。」

「そっか。そりゃすげぇな。」

オーストラリア自体が多文化国家なのは承知しているが、康介の人生の中で、これだけ多くの国の人間が一同に会したのは初めての経験だった。皆がそれぞれの国にいれば、今頃ベッドに入る奴もいれば、ランチの準備をしている奴も、お風呂に入っている奴も、夢を見てる奴もいるわけだ。

そうした時差を飛び越えて、ここに集まった自分達が同じ空の下で同じ時間を過ごしているという現実は、早朝のヒンヤリした空気で冴えた康介の頭には奇跡としか思えなかった。
Yas * 留学 * 22:16 * comments(0) * trackbacks(6)

第九話 -空腹-

ふと、思う事がある。
『満腹』を通り越して、はちきれそうにお腹が一杯な状態の事を何と呼べばいいのだろう?

ICHM(International College of Hotel Management)の寮に引っ越してきて初めての夕食を、一週間水だけで過ごしていたかのような勢いで食べまくった康介は、苦しさの余り自分のユニットまで帰り着く事も出来ず、カフェテリアの隣にある娯楽室のカウチに救助された身で、そんな事をぼんやりと考えていた。日本語はある特定の状態や心理状況などを一言で表す語彙が多く便利だが、英語では同じ状況を直訳できる単語が非常に少なく、文章で回りくどく説明しなければ伝えられないケースに頻繁に出会う。主語、述語、目的語、時制がはっきりしており、相手に誤解を与える可能性の低い言語である反面、一言で言い表せる単語が少ないのが英語の特色だ。しかしそんな英語ではなく母国語で考えているにも関わらず、『満腹』以上の言葉を見つける事が出来なかった結末は、彼をがっかりさせた。

この娯楽室は、簡単なセレモニーやミーティングなど、大人数で集まる目的にも使われる部屋であり、備え付けのテレビとカウチ以外にも、ビリヤード台とテーブルテニス(卓球)の台、ピンボールマシン、ピアノ、更にいくつかの自動販売機でスペースを割かれてもまだ広々としている。歩けなくなるほどたくさん食べてカウチの上で唸っている康介を見放したユンサク達は、何度も彼をほったらかしにして自室に戻ろうと試みたが、その度に「緑の血が流れている薄情者」と彼に喚かれ、遂には諦めて他のカウチに座ってウトウトし始め、この広い空間の中で遭難しているかのようだった。その間にも、大勢の学生達が食事を終えてこの娯楽室を通り抜けていったが、初めて合わす顔ばかりであるにも関わらず、カウチでぐったりしている彼らに気さくに声をかけていくアジア人以外の学生達が、康介にはとても新鮮だった。アジア人同士だと、お互いに変に意識しあうのか、気を使いあうのか、はたまたそれが当たり前なのか、知らない顔に気軽さを見せる事はほとんどないのだが、特にオージー学生達の陽気さとフレンドリーさは特筆ものであった。

相変わらずネイティブスピーカーである彼らの話す英語を半分ほどしか理解できない状態ではあったが、それでもこれから同じ学校で学ぶ事になるたくさんの友人候補が現れた事は嬉しい成果だ。満腹感が癒えずにまだ起き上がれないでいた康介が、そんな物思いに耽りながら会話を交わした学生達の顔を何気なく順番に思い出していると、突如大きな人影が彼の全身を覆った。

「Hey, Choi, Jack!How’s it going?(元気かい?)」

無骨だが優しく、低いが決して大きくはない声で、その影の主は言った。

「Hello, Ben!」

ジャックからベンと呼ばれた男のシルエットは、カウチに横たわりながら見上げた康介には大きなブロッコリーのように見えた。昔の特撮ヒーローもので大きなキノコのような怪獣を見た事はあるが、ブロッコリーの怪獣では何だか恐がってもらえなさそうだと余計な心配をしつつ、逆光に立ち向かう為に細めた視界には190cm近い長身でがっちりした山のような男がニコニコと微笑んでいた。康介の弟となったトンハンも192cmの大男だが、このブロッコリーのシルエットを持つ男はトンハンよりも線が太い感じで更に大きく見えた。

「Nice to meet you. My name is Kosuke.(初めまして、康介です)」

「You, too. I’m Ben from New Zealand.(こちらこそ、ニュージーランド人のベンです)」

ニュージーランドというとラグビーのナショナルチームである『オールブラックス』が有名だが、彼はまさにその一員であるかのような風貌である。マオリ族特有の浅黒い肌と黒く太い眉毛、そして真っ黒でふさふさのカーリーヘアは小さめのアフロで、さっきのブロッコリーのシルエットを形作っていたものだ。実際彼はラグビーの選手であったが、それに相応しいガッチリとした体格は、例え康介が三〜四人がかりでタックルしても、引きずったままでトライしてしまうだろうと思われた。外見的インパクトは相当なものだ。

しかし外見からの印象だけではなく、康介は今晩出会った多くの学生達に対して抱いた好感とは全く異なる、何か特別なインスピレーションをこのベンには一瞬のうちに感じていた。おそらく康介にそう思わせたものは、彼の地球上の生き物を全て慈しむ事が出来るかのような優しさを湛えた黒い瞳だ。父親が営むホテルに幼い頃から出入りしていた康介は、大人だらけの中で大人びた態度を取る子供であり、彼に対してニコニコしていながらも目が笑っていない大人を数知れず見てきた経験は、誰もが秘めている本心というものへの人一倍の関心と恐れを彼に抱かせ、常に気持ちの裏側にアクセスしようとする習慣を作り上げた。しかし、目の前で微笑むベンの瞳には、そんな康介にさえ何も疑念を抱かせない、ただ相手を思いやり、好意を抱いているという平和で純粋な光しか見出せなかったのだ。

「You have wonderful eyes…(いい目をしてるね)」

思わず声に出してしまった康介の予期せぬ言葉に対して、一瞬面食らったような表情を見せたベンだったが、すぐに真意を理解した様子で、一言うれしそうに「Thank you.」と言った。

「これから同じキウイ(ニュージーランド人)の友達のユニットでパーティをするんだけど、康介達もおいでよ。どうせドア開けっ放しでやってると思うからさ!」

「うん、分かった!絶対行くよ。ケネスやフン、トンハンにはもう会った?俺、彼らと同じユニットなんだ。奴らも一緒に連れてってもいい?」

「もちろん!ケネス達とも自己紹介はしたけど、まだゆっくり話してないしね!」


「OK!じゃあ、後でね!」

食い意地が怪我の巧妙となり、彼ら四人を心配して声をかけてきた多くの学生達と会話を交わし、そして間違いなく特別であると思えるベンとの出会いも得た康介は、ユンサク達と一旦自分のユニットに戻り、中庭にダンスミュージックの音が漏れ聞こえてくると、ケネス達も誘って明かり代わりに小型のミラーボールが回るユニットへと歩いていった。ベンが言った通り、ユニットだけでは入りきらずに、中庭の芝生でも学生達が銘々に輪を作り、ビール片手に楽しそうに話をしている。音楽は鳴り止まず、笑い声が途絶える事はないであろうと思わせるその雰囲気は、康介をワクワクさせた。

ユニットのドアの傍にベンの姿を見つけた康介は、彼の名前を大声で呼んで手を振った。彼はさっき出会った時と同じ優しい瞳で手を振り返した。彼の周りには、他にもたくさんの面白そうな学生達が乾杯を繰り返している。

食べ過ぎによる満腹感はそのままだったが、康介の空腹な好奇心は『おあずけ』から解放された犬のように、一直線にその身を新しい出会いの中へと放り込んでいった。
Yas * 留学 * 23:21 * comments(0) * trackbacks(4)

第八話 -空の色-

真夏のアデレードでは、いくら日中に四十度近くまで気温が跳ね上がろうとも、そのドライな気候は夜になると涼しく快適な空気を創り上げる。亜熱帯地方のうだるような熱帯夜とは間逆の夜だ。荷物を部屋に運び終わったが、何となく荷解きする気にもなれず、康介は夕飯までの時間を中庭の芝生に寝転んで、暮れていく空の色を追いかける事に費やした。薄いブルーからオレンジ、ピンクへと色を移した広大な空は、常に彼の想像力を一歩も二歩も超えた変化を見せつけ、彼を悔しがらせた。やがて康介の相手をするのにも飽きたかのように、空は再びブルーの配色へと戻って、その濃淡の世界を群青色の一色のみに統一させていった。

彼と西の空に輝く金星だけが、その一部始終をゆっくりと堪能していた。

そんな康介の満足感・幸福感は、突如発せられた「Boo!(バァ!)」という大声によってもろくも崩されてしまった。聞き覚えのある声にため息をつきながら見上げた頭上には、やはりニヤニヤと不気味に笑ったユンサクとチョイ、ジャックの三人の逆さまの顔が康介を見下ろしていた。

「Hey、康介。何をそんなにセンチメンタルぶってるんだ?気持ち悪いぞ。」

「うるさいなぁ。いいか、人間はちっぽけな生き物なんだから、こうして自然の大きさや不思議さに浸る事でその驕りを失くし、謙虚に生きられるように自分をリセットしなきゃいけないんだよ!」

「はいはい、そういう似合わない台詞は忘れて、晩飯食べに行こうぜ。」

半年強とはいえ、オーストラリア生活の中では最も付き合いの長い三人にかかっては、口の達者な康介も形無しである。ジャックの手を借りて仕方なく起き上がり、彼は自分のユニットに向かって先にカフェテリアに行く事を告げた。たわいも無い話をしながら中庭を横切っていると、この三人とは久しぶりと言う程の期間を会っていない訳ではないにも関わらず、既に何日か顔を見ないだけでも変な感じになる様な近い存在になっている事を改めて気付かされ、康介は何だか恥ずかしいような、うれしい気持ちになった。こみ上げてくる暖かい気持ちを苦笑いで悟られないようにしている彼の表情にユンサクが気付き、同じ表情を返した時の微妙さが、さっきまでの空の色彩のようでとても印象的だった。

それにしてもこうして改めて四人で話していると、英語が母国語であるケネスを筆頭に、同じ韓国人であるフンもトンハンも、今の彼らが足元にも及ばないような英語を話している事が際立ってしまう。一言で言うとレベルが違うのだ。話を聞くと、チョイとジャックは同じユニットだが、キウイ(ニュージーランド人)と台湾人の学生と一緒になり、ユンサクに至っては他のルームメイトは三人ともオージーで、既にコミュニケーションの難しさに直面しているらしかった。これまでは、全員が語学学校に通って同じレベルで英語を勉強する仲間であったが、今日からは英語を話せる事が大前提の世界に置いている身だ。その中で彼ら四人の英語力は最下層レベルである事は、既に実感としてヒシヒシと感じざるを得なかったが、お互いにそれを敢えて口にする事はなんとなく出来なかった。自分達もIELTS(入学の審査に用いられる英語テスト)で6.5ポイントという必要な点数は取って入学しているという自負はあるものの、それに裏打ちされた自信は、この寮に住む他の学生と話をする度に少しずつ、しかし確実に崩れていくのを自覚していたのだ。

四人が足を踏み入れると、カフェテリアは既に多くの学生達の話し声と笑い声で満たされていた。康介達がキョロキョロしていると、彼ら四人の姿を見つけたシャロンが、向こうの入り口に近いテーブルから立ち上がって大きく手を振った。

「オニイチャーン!」

相変わらず康介を日本語で『お兄ちゃん』と呼ぶ台湾人のシャロンは、ティーンネイジャーらしい物怖じの無さで、すっかり周囲の雰囲気に溶け込んでいるようだった。彼女は同じテーブルに座る他の学生達を次々に四人に紹介し、彼らにも同じテーブルに座るよう促した。

「OK!じゃあディナーを持ってくるよ。」

シャロンに席をキープしてもらって、康介達はバッフェ形式のキッチンへと入っていった。このカフェテリアでは、入り口にトレイと皿が用意されており、それを持って様々な料理が並ぶラインを一列に進みながら、自分の食べたいものを食べたいだけよそう形式だ。アジアからの学生にも配慮して米やアジアン・ヌードルも見受けられる。専属のシェフが毎日異なるメニューを提供するだけあって、見た目もおいしそうだ。康介達は一枚のディナープレートでは足りない位の量を山盛りに取ってテーブルへつくと、先ほどシャロンから紹介されたニューフェイス達と早速自己紹介が始まった。シャロンと同じユニットになったという女の子達の中で、ドイツ人とオージーのハーフであるデビーと、カナダ人だがフランス語圏であるケベック州出身のベロニカの二人は、ティーンネイジャー特有のおしゃべりで食べるよりもしゃべっている事に時間を費やしていた。デビーは英語以外にもドイツ語とフランス語も堪能で、ベロニカなどは母国語自体がフランス語であり、ネイティブと遜色ない英語は第二外国語扱いだ。会話の合間に交わすフランス語でのやり取りに二人が大笑いする場面に圧倒された康介達四人は、少しずつ無口になってしまう自分達を少し冷めた目で見つめざるを得なかった。

その後も遅れてきたケネス達もテーブルに加わって、康介にとって寮での初めての食事はワイワイガヤガヤと終わりが無いように続いたが、常に皆自分が話したいという積極的な雰囲気の中でも、特にデビーの早口の英語と話すボリュームは群を抜いていた。

「私のお父さんは国連職員だから、私も世界のあちこちを転々としているの。生まれたのは南アフリカだけど、幼少を過ごしたのはスイスだし。その後も、ヨーロッパを転々としてようやく母の故郷であるオーストラリアに戻ってきたって感じ。」

彼女の話す世界の話に、他の誰かが射る『自分も行った事がある』、『そこで育った』、『そこに友達が住んでいる』という二の矢によって、一つのトピックはどんどんと大きくなり、より多数の生徒達を巻き込んでいく。そのダイナミックなスケールの話には、アジアのトピックはなかなか出てこない。デビーが康介の国について尋ねた時も、世界中を飛び回ってきた彼女にとってさえ、日本という国の情報はほとんど持ち合わせていないようで、せいぜい「私は生の魚が食べられないから寿司は楽しめないわ」という程度の認識に過ぎなかった。

これまでの康介は、日本という島を飛び出し、オーストラリアという大陸でユンサク達やシャロンといった他のアジア諸国出身の友人達と出会い、自分の世界を広げてきた意識で満たされていた。しかし、世界という更に大きな枠へと広がりを見せたこのテーブル上では、アジアという枠では存在感を持って見られていた日本という国は、トピックにも上がらないちっぽけな存在なのではないか?という疑問がふつふつと湧き上がってくる。自分の知らない国の話についていけないだけではなく、彼女達の英語が半分程度しか理解できない現実も、ようやくICHM入学にまで辿りついた康介の自信を揺るがすのに一役買っていた。

日本では言葉の壁にぶつかる事なく、常に我が物顔に振舞う事が出来た。自分の考えを100%主張する事はたやすい事だった。オーストラリアに来て語学学校に入学してからのアジア人が多数を占める環境でも、自分の存在を周囲に認めてもらう事はそれほどの難題ではなかった。自分の考えも8割方は主張できていたと思う。しかし、今の康介は自分が狭い世界での経験しかない、英語もまともに理解できない、ものすごく下等な人間であるのではないかという焦燥感に襲われ始めているのだった。

その初めて味わう心境の変化は、さっきまで見ていた空のように、あっという間に色を変えていくスピードそのもので彼に襲い掛かっていた。そして、食器をキッチンに戻す頃には、彼の心の色は最後に見た群青色で塗りつぶされた世界のように、暗く重い色だった。
Yas * 留学 * 00:06 * comments(0) * trackbacks(6)

第七話 -ただいま-

「Hey, what’s so funny? (何がそんなにおかしいんだい?)」

グラスに注いだ冷えたコーラをトレイに乗せて運んできたケネスが、康介達ばかりケラケラと笑い転げながら盛り上がっているのはずるいと言わんばかりに三人の輪に加わってきた。寮の備品ではない、自ら買ってきたというセンスのいいコースターをせわしなく並べてから、グラスをコーヒーテーブルに並べていたケネスが、康介のTシャツを見て大げさなほど驚いた仕草を見せた。

「Oh, you like Abercrombie?That’s good, isn’t it? (Abercrombie好きなの?いいよね!)」

実際、AbercrombieとEcho、アディダスは康介の好きなブランドだが、周りにファッションの話を熱心にするような友人も存在せず、ただ着心地の良さを気に入っている程度で、ケネスの食いつきの早さに戸惑う程であった。一方、スパイキーという表現がぴったりのツンツンに立てたヘアースタイルのケネスは、ラルフローレンのポロシャツにカルバンクラインのジーンズを合わせていて、見るからにオシャレ好きのようだ。

「着心地いいからね。ケネスも好きなの?」

「うん、Abercrombieはオーストラリアには持ってきてないけど、フィリピンの実家にはたくさんあるよ。TOMMY HILFIGERもシンプルで好きだけど、ポロシャツならやっぱりラルフローレンの方が合わせやすいから、いっぱい持ってきたんだ。C’mon、見せてあげるよ!」

きっと、一箇所にじっとしている事がないのだろうと思われるケネスは、今座ったばかりであるにも関わらず、そう一気にまくし立てると康介を自分の部屋へと招き入れた。キレイに整頓された彼の部屋の壁には幅広の本棚が備え付けられていたが、教科書などを立てかけるという当初の目的は見事に達せられず、洋服と靴が隙間無く並べられたクローゼットと化していた。色とりどりの洋服はキチンと同じ大きさにたたまれた上で種類別に棚分けされ、下二列の棚には、つま先をこちらに向けて革靴からサンダルまでが、まるで値札がついているかのように並べられている。

「すごい量だな、こりゃ・・・。これ、ここで売ってるの?」

「アハハ!No way!全部自分のだよ!」

「でも、こんなにたくさんあっても全部なんて着られないだろ?イヤ、絶対一回も着ないのもあるって。」

「えー、そうかな?これでもかなり選んで持ってきたんだけど・・・。」

真顔でそう答えるケネスの表情は冗談では無い事を物語っていたが、この量の服や靴を持ってくるのに要したスーツケースの大きさを考えると、冗談以外の何物でもない。康介は、とりあえず突っ込んでも「?」という顔しかされないだろうと思い直し、ケネスを促してリビングへと戻る事にした。

「ケネスの服の量、すごいでしょ?」

何故か室内でも被っているキャップも含めて全身ナイキのトンハンと、どこで買えるのか見当もつかない『日曜日のお父さんファッション』に身を包んだフンが、ニヤニヤしながら康介に問いかけた表情から、二人がこの件で既にケネスをからかっている様子が見て取れた。康介も嗅覚を働かせて二人の思惑を汲み取り、わざとケネスに聞こえるように言った。

「うん、すごいね。でも、何ていうかさ、欲しいなーと思うのは一つも無いね!」

「What!? 康介なら分かると思ったのに!」

それから10分以上に渡って延々とそれらブランドの良さを熱く語るケネスに対し、茶々を入れ続ける四人のやり取りは、傍から見れば日常を切り取った、たわいもない光景であった。フィリピン人であるケネスも、両親が中国系の為、その外見はアジア人そのものだ。この四人がありふれた話であーでもない、こうでもないとケラケラ笑っている様は、家族のように見えてもおかしくない程である。全員と今日が初対面の康介にとっては、会って間もないこの三人に既に家族のように溶け込んで接している方が不思議に思えても仕方ない所だ。

『この居心地の良さはなんだろう・・・?』

ふと、安息の日々を送る事が出来なかった実家での本当の家族との暮らしをぼんやり思い出した康介は、一つの仮定へと考えを巡らせた。

『これって、自分が望んでいた家族の姿なのかな?』

大らかでニコニコと微笑を絶やさない優しい父親を思わせるフン、せかせかと動き回りながら、家族の生活空間を快適にしようと努めるオシャレな母親像を想起させるケネス、そして一緒に遊べるかわいい弟トンハン。同じ家族構成だが、血が繋がってはいても気持ちがバラバラで、お互いにギスギスしている実の家族の現状を思い出すと、この四人で醸し出している今の空間の方がよっぽど家族らしいと思わざるを得ない。康介はいつのまにかサイレントムービーのように口だけ動いている三人を見つめながら、そんな悲しい結論に至る自分自身に対し、一度下ろした荷物をもう一度背負わせるような不快な重さを課してしまっていた。

そうやってこれまでに何度も何度も康介の気持ちを押しつぶしてきた喪失感が、タイミングよく開けっ放しのドアから息を切らして入ってきたレセプションのキムと入れ違いに、アデレードの灼熱の太陽の下へと出て行ってくれた事は彼にとって幸いであった。音が戻った世界の中では、康介はいつも彼らしく振舞えるのだ。

「あらあら、何なのこの久しぶりに家族が揃ったみたいな和やかなムードは?康介、もうこの三人とそんなに仲良くなっちゃったの?それとも、私が鍵を取って戻ってくるまでに何年も経っちゃったのかしら?」

初対面の四人が作り上げる雰囲気とは思えない空気に触れたキムは、感心したような、あるいは不思議なものを見たような感想を漏らしながら、康介に彼の部屋の鍵を手渡した。

「そのフェンスの扉のすぐ向こうに駐車スペースがあるから、車はそこに止めなさいね。ナンバーだけ後で教えてちょうだい。ホント荷物運びが楽そうでいいわね。ケネスなんて、一人で来たのに荷物が多すぎてMaxi(8人乗りTaxi)で来たのよ。かわいそうだから、私も荷物を運ぶの手伝ったんだから。」

その節はありがとうと舌を出しながらお辞儀をしたケネスに見送られつつ、彼女がレセプションへと戻っていくと、兄想いのトンハンが早速荷物運びを手伝うと康介に申し出た。

「ありがとう。じゃ、ちょっと部屋の鍵開けてみる。」

さっき入ったケネスの部屋の隣が康介の部屋だった。ケネスとはバスルームを共有する事になるわけだ。キムが汗だくになって届けてくれた鍵は、今度は何の問題もなくスムーズに鍵穴に収まり、カチャリと音を立ててカーテンが光を遮る少し暗い部屋のシルエットを浮かび上がらせた。

「ただいま・・・。」

思いがけず康介の口からこぼれた、初めて入る部屋には相応しくない言葉は誰にも聞かれなかったようだった。
Yas * 留学 * 23:14 * comments(0) * trackbacks(8)

第六話 -正の側面-

開け放した入り口のドアからは、乾いた風に運ばれた芝生の匂いが流れ込み、心地よく鼻腔をくすぐっていた。今日からの新しい住処、ICHM(International College of Hotel Management)の寮は、新たな生活の初めの一歩を踏み出した康介を、アデレードの刺す様な直射日光から守ってくれている。そのお陰で、康介は午後の日差しのキラキラと美しく、そして穏やかな側面だけを、ドアが切り取った四角い枠を通して楽しむ事が出来た。

20cm以上も背の高いデコボコ兄弟の弟、トンハンを見上げ、既に首の後ろにコリのようなものを感じ始めていた康介は、二つ同時に開かれたドアの音によって、その痛みから解放された。

部屋の中から走ってきた足音も、途中で何かにぶつかったような物音も、それら全てをひっくるめた大きな音で勢いよく開けられた方のドアからは、康介よりもやや小柄だがいかにも溌剌としたアジア人が、フレンドリーなオーラを纏って飛び出してきた。

そして、ゆっくりと開けられた方のドアから出てきたやや小太りのアジア人は、家族や恋人など大切な人を傷つけられて狂ったように激怒している時でさえ笑って見えるのではないかと疑ってしまう位、笑顔が通常の顔なのだと錯覚させる風貌で、ゆっくりと温かく彼を出迎えた。

「Hey, You must be Kosuke, right?I’m Kenneth!Nice to meet you!(君は康介だろ?俺はケネス!初めまして!)」

急いで飛び出してきたアジア人は、ネイティブスピーカーの発音で、康介に握手を求めてきた。

「コウスケサーン!ハジメマシテ!ワタシハ、リー・スンフン デース。」

一方のゆっくり出てきたアジア人は、大人の落ち着いた雰囲気と共に、どこかアクセントも発音もおかしい日本語でやはり握手を求めてきた。

康介はほぼ同時に差し出された二本の手をそれぞれ握り返し、アプローチの異なる二人に同時に応対するには、英語がいいのか、日本語がいいのかさえ分からず、ただ笑って「う〜ん、康介!」と名前だけを告げた。

初対面の人間に向かって、一言名前だけを告げるなどとは、いささか不躾な感もなくはないが、この時の康介にはそれ以外の対応の仕方が思いつかなかったものの、とりあえずニカッと笑った彼の笑顔が何よりの自己紹介になったようで、とにかくニコニコと微笑みあう四人は、何だか分からないけれども幸せな空間にいる事だけは間違いなかったようだ。

「C’mon!Let’s sit down first!Hey guys, would you like to drink something?(よし、とにかくまず座ろう!みんな、何か飲む?)」

ケネスが仕切って三人をソファに座らせ、自分はキッチンの小さめの冷蔵庫からコーラのペットボトルや人数分のグラスを取りにせかせかと動き回っているのを横目に、康介は間違いなく年上の雰囲気を持つスンフンにさっきの挨拶について敬語で聞いてみた。名前からして韓国人と分かる彼が年上なら、韓国文化の年齢に対する厳然とした取り決めを尊重しようと思ったのだ。

「ねぇ、スンフンさんも日本語ができるんですか?」

「ニホンゴ?ハイ、アー、カチュドンガスキデス!」

「???」

余りにもニコニコと微笑まれながらだと、何を言ったのか分からなくても聞き返せず、しかしただポカンとしている訳にもいかずに、康介はトンハンにさりげなく助けを求める合図を目で送ってみた。

「あっ、きっとカツ丼が好きって言ったんじゃないですかね。フンさん、日本語は話せませんよ。」

日本語を話せるフリをしているスンフンを前に、やはりどこの国でもニコニコ笑ったセールスマンは信用しちゃいけないと思いを新たにして、康介は大きく息を吸ってから反撃に出た。

「そうですか、実は私もカツ丼は嫌いなほうではないですが、生まれ育ちが東北という事もあり、やはりちょっと味つけが濃い料理を好む傾向があるんですよね。ほら、例えば鍋を一つ作るにしてもダシだけではなくて、更に味噌を追加するといった具合にですね。しかも、やはり白味噌ではなくて赤味噌をより頻繁に使用しますから、更に濃厚な味付けになるもので。ですから、カツ丼もタレが濃い目の方が好きですね。牛丼でもツユだくを頼んで、更に生卵を追加して醤油をかけて食べるのを好みますから。吉野家って知ってますか?朝まで飲んだ帰りがけに食べる吉ギュウってたまんないですよね?私達は『夜明けの吉ギュウ』って呼んでるんですけどね!」

康介は、息つぎもせずに一気に難しめの単語を盛り込んだ長文を日本語でしゃべり倒すと、ニコニコとスンフンに微笑んだ。

「あっはっはっはっ!コウスケサーン、You’re funny!(おもしろい人ですね!)」

眼鏡の奥の恵比寿様のような目を一瞬ぱちくりさせたスンフンは、さもおかしそうに笑い、負けを認めたように英語で話し始めた。

「そういう切り返しは想像していませんでした。コウスケサンは、ユンサク達から聞いていた通りの人ですね!」

『コウスケサン』だけは相変わらず日本語のスンフンだったが、彼の英語の発音は予想以上のレベルである事に、康介は驚いた。

「えっ、ユンサクは何て言ってました?」

「そのまま言っていいんですか?口は悪いし頭も悪いけど、おもしろい奴だって!」

「あの野郎、いつか殺す・・・。」

そう呟いた康介を見て、スンフンは再び腹を抱えて笑った。横でやり取りを見てやはり大笑いしていたトンハンが、男性の韓国人が年上の男性韓国人を呼ぶときに使う『お兄ちゃん』という意味の「ヒョン」という単語でスンフンに呼びかけた事がきっかけとなり、スンフンが康介よりも二歳年上である事も分かった。彼は既に『コウスケサン』と呼ぶようになったスンフンに、年下の自分に向かって『さん付け』はいらないと言ってみたが、スンフンは「もう気に入ったから」と相変わらずニコニコしている。

「じゃあ、俺は何て呼べばいいですか?韓国人って年の差を気にするでしょ?」

「韓国人同士ならあるけど、コウスケサンは日本人なんだから、そのままスンフンでいいですよ。言いにくかったらフンでもいいし。」

「俺だけ『さん付け』で呼ばれるまま、フンって呼び捨てにするのもなぁ。お互い『さん付け』ってのも堅苦しいし・・・。う〜ん、よし分かった。じゃあ『フンちゃん』って呼ぼうっと!」

トンハンが『ちゃん』はかなりカジュアルな表現である事をスンフンに伝えると、その意味はもちろん、響きも気に入ったのか、自ら「ワタシハ、フンチャンデス!」と喜んでいるので、どうやらそういう結論になったようだ。

年上のフンが年下の康介を『さん』と呼び、その逆が『ちゃん』であるパラドックスは、年齢差を重んじる韓国人社会の常識を鑑みるにつけ、日本人である彼だからこそ成し得る事だ。日本と韓国との間に正も負も存在する関係性の中から、正の側面だけを上手い具合に切り取ったような二人目の家族との出会いは、康介を何だか愉快な気分にさせた。
Yas * 留学 * 22:05 * comments(0) * trackbacks(1)

第五話 -Brother-

突然開けられたドアに寄りかかっていた康介は、オフバランスとなって尻餅をついたままだったが、戸口に立つ二メートル近い大男のシルエットがゆっくりと彼に手を差し伸べた。

「すみません、話し声が聞こえたので開けちゃいました。大丈夫ですか?」

そう問いかける言葉は先ほど康介に「こんにちは」と挨拶した時と同様、やはり間違いなく日本語だった。

「うん、ありがと。びっくりしたぁ。」

日本語でそう返しながら、差し出されたグローブのように大きな彼の手を握った瞬間、尻の下に張り巡らされた根っこごと引き抜かれるような力で持ち上げられた康介は、遠足で出かけた畑で自分が引っこ抜いたさつまいもの気分がちょっとだけ分かる気がした。

「サンキュ。すげー力だな。」

「ようこそ。康介さん、ですよね?」

「あれっ?俺、まだ名前言ってない・・・?」

いま一つ状況が把握できていない康介は、誰かに敷かれたレールの上を走るトロッコに揺られているような、行き先がよく分からない妙な気持ちのまま、改めてその大男に視線を向けた。こうして立ち上がってみても、彼は下から見上げた時同様、康介が首の後ろに負荷を感じるほどに見上げなければならない程の長身であった。しかもひょろっと細長いのではなく、均整の取れたガッチリとした体つきをしている。
しかし改めて彼と視線を合わせると、ツンツンに立てた髪型の下にある顔つきは童顔で、つぶらな瞳と表現するのがピッタリな穏やかな目でニッコリと微笑んでいる。

「レセプションの人から、うちのユニットの四人目のルームメイトは日本人だって聞いていたし、ユンサクからも日本人の友達が今日寮に入るって聞いていたから、きっと康介さんの事だって思ってたんですよ。」

「えっ?ユンサクも知ってるの?」

「はい。チョイもジャックも友達ですよね?僕は一週間前に入ってきたので、四日前に入ってきた三人と食堂で会って、同じ韓国人ですし、一緒にご飯食べたりしてすぐ仲良くなったので。」

「えっ?君も韓国人?」

康介の相手をするのがさも面白そうに、彼は次々にぶつけられる質問に一つずつ答えていった。

「はい。僕はトンハンです。初めまして、これからよろしくお願いします。」

「こ、こちらこそ。康介です。」

終始ニコニコと話すトンハンにつられて、つい自分も敬語になってしまった康介にトンハンは慌てて付け足した。

「そんな、僕はまだ19歳なので康介さんよりずっと年下ですから、敬語なんて使わないでくださいよ。」

「はは、そっか。じゃあ、ここはオーストラリアなんだから年齢なんて関係ないし、俺にも敬語はやめてくれな。康介って呼び捨てでいいよ。でも何で日本語をそんなに話せるの?チョイなんて俺が教えたサムライ言葉を正しい日本語だって思って使ってる位なのに。」

実際、康介は日本語を覚えたいというチョイにせがまれ、まずは彼に日本語での自己紹介を教えていた。しかし、当然いたずら好きな康介が普通に教えるわけも無く、かわいそうなチョイは日本人に会う度に、『はじめまして、拙者はチョイでござる。かたじけない。』と武士言葉での自己紹介を披露しては、笑われていた。

「僕、小学校の六年間、お父さんの仕事の関係でずっと大阪に住んでいたので。でも中学校から韓国に戻ったので、たくさん忘れちゃったけど。」

「そうなんだ!日本人が話すのとほとんど変わらないよ。今まであった外国人の中で一番上手い。」

「ありがとうございます。」

康介に褒められて恥ずかしそうに頭を掻くトンハンからは、ティーンネイジャーに特有の尖った自己主張が微塵も感じられず、育ちの良さが全身から滲み出ているのを感じた。康介はまだ会って五分も経たないうちに、このまだ幼さの残る『大きな』子供に対する興味がムクムクと沸いてくるのを感じていた。

「それにしても背が高いな。何センチあるの?」

「192センチです。」

「何かスポーツやってる?」

「はい、バスケが好きです。」

「ホント?俺もバスケ部だったんだ。」

韓国人にバスケ好きが多い事は既に知っていたが、自身も中学校時代にバスケ部に所属していた康介は、すぐに共通の趣味も見つかって余計にうれしくなった。

「この寮にバスケのコートがあるんです。それもフルコートの。じゃあ一緒に出来ますね!」

「いいねぇ。でも、背の分ハンデをもらわないとな。1 on 1でプレイする時は、10点先取だったら0対9からスタートな。もちろん俺が9点からスタートだけど!」

無邪気に笑い合うトンハンと康介の間には、既に初対面の垣根は見えなくなっていた。

「トンハンもバスケ部だったの?」

「中学校の時は。でも高校からニュージーランドに留学したんですけど、バスケ部がなかったので遊びでだけやってました。」

「えっ?高校はNZ?じゃあ、韓国語も日本語も英語も出来るんだ?」

自分が19歳にして既に三ヶ国語を話せる事を全く鼻にかけないどころか、あくまで韓国語以外は日常会話が出来る程度と謙遜しながら再び照れくさそうに頭を掻くトンハンは、康介の頭の中の友達リスト上をトップ方面へ急上昇していった。歌番組であれば、初登場でランクインの快挙といった所だ。

思えばゴッサム寮でも入寮してすぐにサムとジョージという友達に恵まれた康介は、自分の人生は人との出会いに恵まれていると改めて幸せに感じられた。しかし、このトンハンからは何かそれ以上のものを強く感じ、年が六つも離れている事もあったのか、康介はふとある考えにたどり着いた。

『うん、このトンハンは、きっと友達ってよりは弟みたくなるに違いない。』

オーストラリア人が友達を呼ぶ時に使う『Mate(マイト)』の代わりに、ニュージーランドで英語を身につけたトンハンは『Bro(ブラザー)』を使うクセもすぐに知る事になるが、この初めての出会い以降、この『Bro』がトンハンと康介の間に限っては、本来のそのままの意味で使われるようになるまでそう時間はかからなかった。

そして、弟の方が20センチも背が高いデコボコ兄弟が立ち話に花を咲かせている背後では、二つのドアが一つは急いで、もう一つはゆっくりと開かれていた。
Yas * 留学 * 22:33 * comments(0) * trackbacks(3)
このページの先頭へ